ピースアクションinオキナワ 参加報告
2024年05月10日
2024年3月27日(水)~3月29日(金)の3日間、沖縄戦の実相と現在の沖縄が抱える基地問題を学び、平和について考える機会としてピースアクションinオキナワに、組合員理事2名と職員1名が参加しました。
今年度のテーマは「沖縄から学ぶ 過去・現在・未来」。
住民を巻き込んだ地上戦の歴史と米軍専用施設の70.3%が集中する沖縄の現状を学びました。
■1日目
学習講演会に参加し、2名の講演や報告をお聞きしました。
●琉球大学教育学部 副学部長 山口剛史先生
講演テーマ:「沖縄戦・在沖米軍基地から平和について考える-フィールドワークに行く前に考えたいこと-」
山口先生は小学校・中学校の社会科の指導法の担当や、学校現場の要請に応じて平和学習の特別授業なども実施されている方です。
冒頭「沖縄で平和を考えることは『軍隊とどう向き合うのか』を考えることだ」と発言があり、参加者が2日目以降のフィールドワークで自分なりに確認したいことを見つけられることや、世界で平和をつくるために私たちにとって軍隊は必要なのか?という問いを深められることをゴールとした60分間の講演でした。
内容は解説を交えたクイズ形式で、過去の沖縄戦から現代の基地問題に至るまでの学習ができました。
●波平元維さんと現繫多川公民館館長 南信乃介さんによる学習講演(過去映像視聴)
講演テーマ:「那覇市 繁多川(はんたがわ)の住民が見た沖縄戦」
※映像視聴後、南信乃介さんのみ ご登壇
波平さんは沖縄戦当時6歳で、那覇市の繁多川地域で生活していました。そんな波平さんの戦前~戦後の体験を語った過去の映像を視聴しました。
戦時中のお話が特に心に残っています。戦闘が激化し、昼夜を問わず逃げ延びるため前に進むしか選択肢がなかったそうです。道端には何十ものご遺体が転がっていて、息絶えた母親のお乳を飲もうとしている赤ちゃんがいたそうですが、精神的にも疲弊し孤児や身体の不自由な人を見つけても"他の人を助けたい"という気持ちになれない、とにかく前にすすむしか考えられなかったそうです。
■2日目
フィールドワークで下記5か所を見学しました。
南風原(はえばる)文化センター
沖縄戦や戦後に関する展示などを行っている施設です。当時、南風原にあった沖縄陸軍病院南風原壕が再現されています。
また、壕の再現だけではなく、内部には負傷した兵士の模型が置かれていたり、体験可能な寝台、当時の薬や手術道具、遺品も掲示されていて、当時の状況をよりリアルにイメージすることができました。
飯上げの道 南風原文化センター裏の黄金森内
飯上げの道は、ひめゆり学徒隊がアメリカ軍の砲弾をかいくぐって炊事場から付近の壕に食料を運んだ道のことをいいます。道と言っても、小さな丘のようになっていて急な斜面を登り下りしました。
道の一部は舗装されていましたが、当時を思わせるような未舗装の道もあり踏ん張らないと転びそうになってしまいました。道中、米軍機が上空を飛んでおり、木々の隙間からすさまじい音が聞こえ、危害が加わらないと分かっていても一瞬恐怖を感じてしまうほどでした。
沖縄陸軍病院南風原壕群20号
沖縄陸軍病院南風原壕群は、全部で30号まであったそうです。その中で現存し、見学が可能なのは20号のみで、町の文化財に指定されています。
今回はひめゆり学徒隊の一部の生徒が2か月間を過ごした20号の壕内部を見学しました(※壕とは土や斜面に掘った穴や溝のことをいいます)。
20号は人口の横穴壕で全長70mあり、中央で19号と21号に繋がっています。内部はゆるやかなカーブになっており、壕の入口に爆弾が落ちても被害が少ないよう設計されていたそうです。大きさは180㎝×180㎝で、当時は90㎝の2段寝台が壁沿いに置かれていました。
上記の写真は壕の入口です。茶色の扉の先にもうひとつ扉があり、開けると壕の内部に繋がっています。壕の中はとても狭く感じました。
高温多湿で光が入らない世界は想像よりも過酷な環境で、この狭い空間の中に負傷した兵士が数多く運び込まれ、十分な治療も受けられず悶え苦しんでいる様子を想像すると、息苦しくなってしまいました。
嘉数(かかず)高台 ※展望台は工事中のため見学不可でした
嘉数地域は沖縄戦の激戦地のひとつであり、嘉数高台にはトーチカなどの戦跡や慰霊碑が建立されています。また、普天間飛行場を目下に臨み、肉眼でもオスプレイを確認することができました。
下記の写真がトーチカ(トーチカは、当時では貴重なコンクリート製の敵から身を隠す陣地のこと)で、赤い丸印の部分が銃眼になっています。
辺野古新基地建設現場
普天間飛行場の移設先とされている辺野古新基地ですが、軟弱地盤(マヨネーズ並みと言われています)が見つかり安全性が担保されておらず、7万本の杭と大量の土砂を流入する必要があるそうです。
また、大浦湾は希少種の生息地域であり、今でも新種の生物が見つかっていますが、基地建設に伴う海洋汚染が心配されているなど多くの問題や課題があります。
下記の写真は、バスの中から撮影した辺野古新基地建設に対して抗議活動を行う方です。複数名の方が雨の中、抗議活動をされていました。
■3日目
フィールドワークで下記3か所を見学しました。
魂魄(こんぱく)の塔
魂魄の塔は沖縄戦の終盤にアメリカ軍の攻撃によって米須一帯に追い込まれ、逃げまどい亡くなった住民や日本兵、アメリカ兵、約3万5千余りのご遺骨が納められた塔です。
戦後、米須一帯には多くのご遺骨が散らばっており住民が総出で拾い集め、建立されました。
魂魄=「さまよう たましい(マブイ)」という意味で、自分の家族や知人がどこで亡くなったのか分からない、ご遺骨も手元にない、そんなご遺族の方がここに魂は宿っているかもしれないと考え、魂魄の塔を訪れられるそうです。
米須(こめす)海岸
米須海岸は、住民や日本兵にとって最後の逃げ場となった海岸です。
海はアメリカ軍の軍艦に包囲されていたため、住民や日本兵は岩場や斜面の草木、小さなくぼみに隠れたそうですが、陸からはアメリカ軍の火炎放射器や自動小銃による攻撃があり、多くの方が亡くなってしまいました。
ひめゆりの塔・ひめゆり平和祈念資料館
ひめゆりの塔は沖縄戦で亡くなった、沖縄師範学校女性部・沖縄県立第一高等女学校の生徒や教師のための慰霊碑です。
沖縄戦の翌年、両校で最も多くの犠牲者を出したガマの上に建立されました。学校全体の死亡者 227 人の名前が刻印されています。
ひめゆり平和祈念資料館は1989年6月23日、ひめゆり同窓会によって設立されました。証言映像や戦前の学校生活の写真、亡くなった生徒や教師の顔写真、ガマの実物大模型などが展示されていて、大きく6つのブースによって構成されていました。
また、今回は施設の見学だけではなく、元ひめゆり学徒隊の宮城喜久子さんの講和(過去映像)を視聴することもでき、荒崎海岸にて捕虜になるまでの想像を絶する悲惨で過酷な体験の詳細を知ることができました。
<参加職員より>
3日間を通じて、平和について自ら考え知ることの大切さを学び、同時に平和を維持するためには自ら行動しなければならないと痛感しました。
また、現地に行かないと分からないこと、知れないこと、感じられないことがたくさんありました。歴史や事実を知った以上、今後も多くの人達に伝え、ひとりではなく多くの人たちと一緒に平和について考えることが私の責任だと思いました。
「よりよき平和とくらしのために」行動し続けていきたいです。